じしゃく忍法帳
第76回「エレキテルに脅された天然磁石」の巻
エレキテルに脅された天然磁石
三浦按針の“按針”とは羅針盤の針のこと
ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがアフリカ回りでインドに到達したのは1498年。しかし、中国ではそれよりずっと以前に、タイやジャワを経由してアフリカ東岸にまで達しています。15世紀・明の鄭和(ていわ)の大航海です(1405〜1433年にわたり7回の航海)。60隻以上の大船団を組み、乗員数は2万を超えたといわれ、4隻の船で出発したバスコ・ダ・ガマの船団とはけた違いのスケールです。羅針盤は中国の発明であり、当然ながら鄭和の大航海でも使われました。そのころの日本はといえば、すでに13世紀ごろから中国沿岸で倭寇(わこう)が暴れまわっていたという史料があるので、彼らも羅針盤を知らないはずはありません。とはいえ、当時の遠洋航海はたぶんに経験やカンが頼りでした。
しかし、その後、アジアに進出してきたポルトガルやオランダから西洋式羅針盤やその他の航海道具、天文学・暦学が渡来。日本の航海術は16世紀後半から江戸初期にかけて著しく発達しました。このことは元和4年(1618)に書かれた『元和航海書』によって知ることができます。同書の自序において、著者の池田好運はゴンサロという名の船乗り(おそらくポルトガル人)により、「行師之道(あんじのみち)」を伝授され、元和2年(1616)、ともにルソン(フィリピン)に渡海したと述べています。
「行師(あんじ)」とは「按針(あんじん)」ともいい、ポルトガル語で水先案内人を意味する「ぴろうと」にあてた訳語(英語のパイロット)。水先案内人が羅針盤の針を調べて(按じて)方位を知るからといわれます。ちなみに徳川家康に仕えたイギリスの水先案内人ウィリアム・アダムズは、相模国三浦郡(現・横須賀市)に領地を得たため、三浦按針(みうら・あんじん)という日本名で呼ばれました。
江戸初期に日本の航海術は西洋レベルに達していた
『元和航海書』には観測器械を使って毎日正午の太陽高度を知る表なども載っていて、当時の日本の遠洋航海術はかなりのレベルに達していたことがわかります。しかし、1630年代における徳川幕府の鎖国令や禁書制度によって、その後、幕末まで停滞を余儀なくされてしまいました。
禁書制度が緩和されたのは、江戸中期の享保年間。時の8代将軍・徳川吉宗は、鎖国を保ちながらも西洋科学を殖産興業へ積極的に利用しようとしたからです。こうして漢訳の西洋の自然科学書ばかりでなく、オランダ語の自然科学書も数多く輸入されるようになり、その翻訳から蘭学が勃興することになりました。
10代将軍・徳川家治の治世のいわゆる“田沼時代(1767〜1786)”になると、商品経済がさらに発達して、諸藩でも殖産興業がさかんに進められました。鉱山開発も活発になり、発明の才に恵まれながら困窮していた平賀源内(1728〜1779)は、“山師”として一旗あげようと、遠く秋田にまで足を伸ばしています。江戸時代の鉱山技術を知るうえで貴重な文献である『鉱山至宝要録』(著者は黒沢元重)には、安永2年(1773)に、「江戸から当地に平賀源内らが訪れて数日逗留し、鉱石の採掘法・製錬法などを伝授していった」という意の覚書が残されています。当地というのは秋田の院内銀山(現・秋田県雄勝郡雄勝町)のこと。院内銀山は文化14年(1817)に秋田藩直営の鉱山となって、天保年間(1830〜1843)から明治時代まで豊富な銀を産出して好況を呈しました。平賀源内のアドバイスがのちに生かされたのかもしれません。
日本の実験電気学の祖 橋本宗吉の科学実験
平賀源内によって日本でも製作できるようになったエレキテル(摩擦起電機)は当初は見世物などで人気を博しましたが、多作されるうちに珍しいものではなくなり、人々の関心は薄れました。このエレキテルを科学実験器具として見直したのは江戸後期の橋本宗吉(1763〜1836。号は曇斎)。彼の『阿蘭陀始制エレキテル究理原(おらんだしせいエレキテルきゅうりげん)』は、日本初の実験電気学の書です(1811年ごろの著作)。もっとも同書に記された実験は彼のオリジナルではなく、オランダのボイスの著書に書かれている実験を、自作装置で追試したものです。しかし、エレキテルは特別なカラクリを必要とせず、ガラス管を紙でこすっただけでエレキテルの気(静電気)が発生すること、また、ガラス以外の多くの物質もエレキテルの気を帯びることなどを、実験を通して明らかにしています。
彼はまたエレキテルの火花で焼酎に火をつけたり、手をつないで輪になった大勢の人を、自作のライデンびん(「百人様(ひゃくにんためし)」と命名)に蓄めた静電気で、いっぺんに感電させて驚かす実験(「百人おどし・百人おびえ」)をしたり、さまざまな科学実験を演じてみせました。今日の科学手品のハシリです。
図1 『阿蘭陀始制エレキテル究理原』(橋本宗吉著)の摩擦電気実験
電磁気学までもう一歩 磁石とエレキテルの実験
橋本宗吉は磁石とエレキテルを結びつけた興味深い実験もしています。エレキテルで磁石を脅(おど)して、吸いつけた針クギを落とすという実験です。ライデンびんから伸ばした鉄の鎖に、針やクギを吸いつけた磁石を結んで吊るし、エレキテルでライデンびんに蓄電していくというもので、彼はエレキテルの気が「充満すれば、針クギは上に左右に立つ」と述べています。磁石に吸いつけた針やクギに、別の磁石を近づけると立ち上がったりするのはわかりますが、この場合の動きは静電気によるものです。今日でもあまり行なわれない珍しい実験なので、ためしにプラスチックの下敷きなどをこすって静電気を発生させ、磁石に吸いつけた針などに近づけると、なるほど「上に左右に立つ」ことがわかります。ただ、ライデンびんの放電とともに、吸いつけた針クギが落ちるのは、針クギを立たせていたクーロン力の支えが突然なくなることによるものですが(力学作用)、橋本宗吉はエレキテルの気が、磁石の磁力までなくすと考えていたふしがあります。
それはともかく、橋本宗吉がこの実験で使った天然磁石(磁鉄鉱)の塊はどこで入手したのでしょう。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』(1712)には、「『続日本紀』に和銅6年(712)、近江国から慈石(磁石)が献上されたという記載があるが、それ以来、日本では慈石の出たことを聞かない」と記されているからです。しかし、それから約半世紀後の平賀源内の著書『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763)になると、「慈石、和名ハリスヒイシ、漢品上品、備前産上品、甲斐金峯山(きんぷざん)産中品」とあり、同時代の国語辞書『和訓栞(わくんのしおり)』(1777年から刊行)にも、「今、諸州より出で、信州のもの上品なり」とあります。このことから、江戸中期以降から国産磁石が各地で産出するようになったことがわかります。橋本宗吉が使ったのも、国産の天然磁石でしょう。
橋本宗吉がテキストとしたオランダの実験書は当時最新のものではなかったため、残念ながらガルバーニ電気(電流)やボルタの電池のことには触れられていません。彼がこの知識を得ていたなら、エルステッド以前に電流の磁気作用を発見していたかもしれません。というのも、彼は羅針盤の磁針の南北を指す力を、エレキテルの気で失わせるという面白い実験も試みているからです。
図2 天然磁石とエレキテルの気(静電気)の実験
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