じしゃく忍法帳
第39回「羅針盤と磁気コンパス」の巻
「裏針」はジャパニーズ・コンパス
歌舞伎役者が使った磁石とは?
最も得意とするものを俗に“オハコ(十八番)”といいます。もともと歌舞伎用語 で、江戸時代後期の7代・市川団十郎が、市川家に伝わる歌舞伎の演目の中から、『 暫(しばらく)』『助六(すけろく)』『勧進帳(かんじんちょう)』など、18の演 目を選んで制定したものです。
この歌舞伎十八番のひとつに、忍者と磁石が登場する『毛抜(けぬき)』という演目があります。あらすじをざっと紹介すると、とある大名の姫君が、あろうことか髪の毛が逆立つという世にも奇妙な病気にかかり、予定されていた婚礼も延期、このままでは破談…というところから話が始まります。
実はこれは病気ではなく、婚礼を阻止しようとする家老の陰謀。銀のカンザシと偽 って、鉄のカンザシを姫につけさせ、天井裏に忍者を潜ませていたのです。姫の髪が 逆立つのは、天井裏の忍者が姫の頭に磁石を向け、鉄のカンザシを吸い寄せていたか らです。しかし、そうとは知らぬ姫は、「アレ、悲しや、また病が起こったわいの… 」と悲嘆に暮れていたという次第。なるほど、これではお嫁に行けません。
この陰謀を主人公が見破る過程が『毛抜』の面白さ。ヒントになったのは、主人公が携帯 していた鉄製の毛抜が、なぜか突然、動き出すという現象です。一連の事態を推理し た主人公が、意を決してやにわに天井を槍で突くと、潜んでいた忍者が大きな磁石を かかえたまま落ちてきて、家老の陰謀が発覚、めでたしめでたし…と幕が引かれます。
東洋と西洋の羅針盤の違い
鉄のカンザシや毛抜が磁石に吸引されるのに、なぜ刀や槍が吸引されないのか、な どという野暮な疑問は抜きにして、さて、歌舞伎『毛抜』の中で、忍者はどんな磁石 を小道具として持っていたのでしょうか?
マンガ的で分かりやすいのは、馬蹄形(U字形)の大きな磁石です。ところが、『毛抜』の初演は1742年。当時、日本はもちろんヨーロッパにさえ、馬蹄形の磁石などありません。
何と『毛抜』の初演時 に、忍者が持っていたのは羅針盤でした。今日のように磁石が多用されていたわけで はなかった江戸時代には、鉄を吸いつける磁石の性質は、大衆の間でかなり誇張され て理解されていたのでしょう。磁石も羅針盤も同じようにマカ不思議な存在だったの です。
また、そもそも羅針盤というのは、中国で古くから地相占いに使われてき た羅盤(らばん)がルーツです。この羅盤に磁針を取り付けたのが羅針盤です。
羅経盤、羅針儀、磁石盤などとも呼ばれた羅針盤は、英語ではコンパス、正確には磁 気コンパス(マグネチックコンパス)といいます。羅針盤は紙・印刷術、火薬ととも に中国の3大発明といわれますが、最初にアラビアに伝えられたのは、指南魚(しな んぎょ)だったといわれます。これは魚の形をした木片に、天然磁石あるいは磁針を 取り付け、水に浮かせて方位を知る道具でした。
これがアラビア商人を通じてヨーロッパに渡り、そこで改良を遂げたのが、西洋式羅針盤=磁気コンパスです。当初は磁針をワラなどに突き刺して水に浮かべたりしていましたが、やがて垂直軸の上に磁針を支えるピボット式のものが考案されました。このピボット式の磁針に、方位を記した円形のコンパスカードを貼り付け、容器におさめたのもヨーロッパにおける考案です。こうして大航海時代から18世紀ごろまで使われた古典的羅針盤が完成しまし た。
図1 昔の中国製航海用羅針盤
液体式コンパスは20世紀初頭の発明
ところが、19世紀に鉄製の船舶が建造されるようになると、船体が羅針盤の磁針を 狂わせることが問題になってきました。磁針の示す方位の誤差修正などを含めて、今 日の船舶用磁気コンパスの原型を完成させたのは、19世紀イギリスの物理学者ケルビ ン卿(W・トムソン)です。ちなみに彼が磁気コンパスの改良に携わったのは、大西 洋横断海底電線の敷設にあたってさまざまな測定機器の見直しが必要になったからで す。
やがて20世紀に入ると、船体の動揺・振動の影響を少なくするため、磁針やコンパスカードを液体に沈めた磁気コンパスが開発されました。今日、船舶で使われている液体式の磁気コンパスの構造を図2に示します。羅針盤よりかなり複雑になっていますが、磁石が主役であることに変わりはありません。
ところが、磁気コンパスは磁北を指すものの地理的な北は指し示さず(偏角による)、高緯度地方では十分に機能しません(伏角による)。また船の旋回でコンパスカードが振れ回ったり、船体や積み荷などの鉄の影響による自差と呼ばれる誤差が生じます。この自差修正には熟練を必要とするので、船舶航行にはジャイロコンパス(転輪羅針儀)が考案され、利用されるようになりました。
図2 液体式磁気コンパスの構造
方位盤が裏返し日本独特の羅針盤
回転するコマの軸が、たえず一定方向を指し示す現象を利用したのがジャイロコン パスです。船体が帯びた磁気や、船体の動揺・振動などにも影響されず、最初に設定 した方位をいつまでも指し続けます。
しかし、回転するジャイロは三次元的に自由でなければならないので、方位を記したコンパスカードと連結することができません。そこで、非接触のままジャイロとコンパスカードを連結させる追随装置と呼ばれる装置が使われ、そこには電磁力が利用されます。
この追随装置は変圧器の原理を応用したものです。ジャイロに直結した鉄片が、コンパスカード側の変圧器中央の一次コイルから、二次コイル側にずれると、鉄心の磁束に変化が起きて、二次コイルに起電力が誘導されます。この起電力によってモータを回し、鉄片を中央の位置にたえず戻すのです。つまり電磁力を介在させることで、ジャイロの移動につれてコンパスカードも動くことになります。
ジャイロコンパスの長所は、航路変化を電気信号として取り出せるので、情報を即座にいくらでも伝達できることにあります。またオートパイロット(自動操舵)も可能になります。ただし電子機器なので、電源が切れると用を足さなくなります。このため地磁気を利用する磁気コンパスは、船舶航海にはやはり欠かせません。
ところで、江戸時代の和船では、裏針(うらばり)とか逆針(さかばり)と呼ばれた特殊な羅針盤が使われました。中国の羅針盤には時計回りに、子・丑・寅…と、十二支の方位目盛が記されています(北が子、南が午。そこで地球の南北線を子午線といいます)。しかし、図3のように日本の裏針は、十二支の目盛が反時計回りになっています。これは一見不可解なことですが、使い方によっては、通常の羅針盤よりも便利な道具であることが分かります。
通常の羅針盤や磁気コンパスは、磁針を方位盤の北(あるいは南)に合わせます。一方、裏針はといえば、方位盤の北の目盛を船の進行方向に向けます。こうすると、磁針が指し示す方位盤の目盛が、進行方向の方位ということになり、読み取りミスも少なくなります。ジャパニーズ・コンパスともいえる裏針は、実用本位の日本人ならではのグッドアイデアです。
図3 裏針の使い方
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