じしゃく忍法帳

第6回「不思議な磁性流体」の巻

宇宙開発から生まれた磁石に吸い付く液体

過酷な宇宙環境では“漏れ”は命にかかわる

敵に正体が見破られたときとっさに身を隠したり、敵の目をくらましたりする忍法の術を「遁術(とんじゅつ)」あるいは「遁甲(とんこう)」といいます。

忍法では潜入法よりも脱出法のほうが重視されます。潜入中に見つかった場合は戦ったりせず、ただひたすら逃げまくれと忍術書は教えます。よく知られる「木火土金水」の「五遁」の術も、周囲にある物や自然現象などを利用して、臨機応変に逃げ隠れるための逃走術。たとえば、木立や草むらに隠れるのは木遁(もくとん)の術、火薬などを使って相手の目をくらますのは火遁(かとん)の術という具合です。

「水遁(すいとん)」の術の一つである潜水術は、マンガや映画などでおなじみのものです。竹筒を口にくわえて水に潜り、竹筒の上端を水面に出して呼吸します。しかし、これをシュノーケルのようなものと思うと大間違いで、実際にやってみると想像以上に難しいといいます。というのも、シュノーケルでは息は水中に吐き出すので、パイプの中を流れる空気はいつも新鮮です。しかし、忍者が使う竹筒は、空気を吸うための通路であると同時に、吐き出す息の通路です。このため、竹筒内部の空気は呼気と吸気が入り混じり、あまり長時間潜水すると酸素不足に陥ってしまうのです。といって、水中に息を吐き出したりすると、水面にブクブクと泡が発生して、すぐに敵に見つかってしまいます。

吐く息の処理に技術を要するのは宇宙船でも同じです。宇宙空間はほぼ真空なので、宇宙船内部は気密状態を保たねばなりませんが、その一方で船内空気は新鮮さをたえず維持する必要があります。船外活動に必要な宇宙服にいたっては、人体を包むミニ地球のようなもので、換気や温度調整、酸素浄化、水循環、尿処理などをこなす大きな生命維持装置を背負わねばなりません。

アポロ計画の推進過程で開発された磁性流体

真空にさらされる宇宙空間においては、わずかな空気漏れが宇宙飛行士の命にかかわります。このため、1960年代、アメリカがアポロ計画を推進する過程で、宇宙機器や宇宙服のシール材として開発されたのが磁性流体です。

磁性流体というのは、流動性をもつ液体のような磁性体。直径10万分の1mmほどの強磁性微粒子を水や油などの溶媒に分散させたものです。見かけはドロドロとした黒色の液体ですが、磁石を近づけるとアメーバのように流動しながら擦り寄ってきます。墨汁のような黒色を呈するのは、マグネタイト(Fe3O4)を主成分とするからです。

強磁性微粒子は鉄酸化物ですから、外部の磁石に吸い寄せられるのは当然です。しかし、強磁性微粒子をただ水や油などの溶媒と混ぜるだけでは、磁性流体などつくれません。強磁性微粒子と水や油などの溶媒とが分離しないのは、強磁性微粒子の表面が界面活性剤で処理されているからです。

合成洗剤の主成分でもある界面活性剤は、親水基と親油基を両端とする細長い分子です。合成洗剤は食器や衣服の油汚れをよく落とします。これは界面活性剤の親油基が油汚れを取り囲み、親水基が外側になったミセル粒子を形成するからです。このミセル粒子は水となじむので、水とともに油汚れが落とされるのです。

磁性流体において界面活性剤は、強磁性微粒子を水や油などの溶媒となじみやすくする役割を果たします。

磁性流体となる強磁性微粒子は、見かけは単なる鉄酸化物の微細な粉末ですが、その表面は界面活性剤でいわば“お化粧”されているので、水や油などの溶媒によくなじんで、コロイド状に分散するようになるのです。

磁石に吸いつく性質をシール材として利用する

ところで、宇宙服というのは単なる密閉空間ではありません。酸素や水など、外部からの物資の取り入れ口も必要ですし、着用のための開口部も必要です。しかし、真空の宇宙空間で活動するためには、すきまをピッタリ防ぐだけでなく、曲げや引っ張りにも気密性を保つフレキシブルなシール材が求められます。したがって、液体のような流動性をもちながら、磁石にピッタリ吸い付く磁性流体は、宇宙服のシール用としてかっこうの材料なのです。

宇宙服のみならず、磁性流体はモータなどの回転軸をもつ宇宙機器のシール材としても多用されています。宇宙空間は無重量状態なので、回転軸の摩擦に伴って発生する微細な金属粉やオイルミストなどの飛散は、宇宙船内部の環境を悪化させます。そこで、宇宙機器では回転軸に取り付けたリング磁石のヨーク部に磁性流体を満たすことで、この問題を解決しています。磁性流体は回転軸の磁石に追随するとともに、膜のようにすきまを埋めて気密性を保ちます。このような芸当はゴムやプラスチックではとうてい望めません。

もともと宇宙機器や宇宙服用に開発された磁性流体は、現在では地上においてもさまざまな分野で広く活用されています。とくに微細なチリも故障の原因となる精密機器においては、モータなどの軸受け部のシール材として不可欠のものです。

流動性を生かして物体の比重選別にも使われています。非磁性体は磁石に吸いつきません。しかし、いろんな比重の非磁性体を磁性流体の中に浮かべれば、外部から磁界を加えることで、特定の比重の非磁性体を磁性流体ごと選別することができるのです。

外部磁界によって制御できるので駆動部のダンパとしても利用でき、また発熱部の熱放散用として使うことも容易です。従来の固体の磁性体では望めなかった一石二鳥的な応用が可能なのも、磁性流体ならではの特長です。

着脱性と気密性にすぐれた新タイプの人工肛門にも応用

医療分野では人工臓器への応用も研究されています。その一つが、ガンなどで直腸を摘出した患者に取り付ける人工肛門です。

人工肛門は、体外に露出させた大腸に、排出物をためる袋を接合させるための器具。着脱性にすぐれていなければ不便ですし、接合部の気密性が悪いと異臭がただよって本人や周囲が不快な思いをしてしまいます。

そこで、磁性流体を混ぜたシリコンゴムをドーナツ状にして皮下に埋め込み、磁石の吸引力を利用してすきまなくピッタリと接合しようというのが新タイプの人工肛門です。磁性流体には流動性があるので異物感がなく、また圧迫されて組織が死ぬこともないという長所があります。

目に見えない磁気エネルギーのパターンを簡単に見せてくれる磁性流体シートと呼ばれるものも販売されています(商品名:マグネット・スコープ、マグネチック・ビュアーなど)。これは磁性流体をフィルム状のシート内部に均一に分散させたもので、磁石にこのシートをあてると、磁気エネルギーが強いところに磁性流体が集まるので、磁石の着磁パターンなども確認することができます。

磁性流体の特異な物性の応用は、まだ始まったばかりの段階です。「水は方円の器に従う」といいますが、磁性流体は方円の器に従うだけでなく、外部磁場によって容易に操ることが可能です。発想を磁性流体のようにフレキシブルにして、ユニークな活用法を考えてみてはいいがでしょうか。

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