テクノ雑学
第193回 細胞の分化を「巻き戻す」技術〜 iPS細胞の持つ可能性
2012年10月、京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥教授がノーベル医学生理学賞を受賞されることが決定しました。今月のテクの雑学では、山中教授が研究する「iPS細胞」について解説します。
生物はもともと一つの細胞だった
植物や動物などの多細胞生物のからだは、多数の細胞からできています。たとえば、ヒトであれば体重1㎏あたり約1兆個、体重60㎏の成人であれば60兆個の細胞があります。細胞は、その種類によって特化した機能を持っており、つながりあって体内の組織や器官を形成しています。しかし、元をたどればこれらの細胞はたった一つの「受精卵」という1つの細胞が分裂したもので、分裂の過程でさまざまな機能を持つ細胞に分かれていきます。細胞が特定の機能を持つ細胞に変化することを「分化」といいます。
生物の体内の細胞は、生物が生きている間は入れ替わっており、新しい細胞を供給する役割を持つのが「幹細胞」と呼ばれる細胞です。ヒトやマウスなど多くの生物では、からだの場所ごとにその場所の細胞を供給する幹細胞があります。幹細胞の種類により、作れる細胞には制限があります。たとえば、「造血幹細胞」であれば、リンパ球や赤血球、血小板、白血球などに分化することはできますが、皮膚細胞や心筋細胞などには分化できません。
さて、すべての細胞の大元になっている受精卵には、すべての種類の細胞に分化できる可能性(全能性)を持っています。体内の幹細胞は受精卵と同じ遺伝子を持っていますから、遺伝子だけを見れば、どのような細胞に分化してもおかしくありません。しかし、実際には特定の細胞にしか分化できないのは、遺伝子に特定のたんぱく質が作用することが原因です。たんぱく質の働きによって、細胞の中で活発に働く遺伝子の組み合わせが変化して、特定の細胞にしか分化できなくなっているのです。
立ちはだかった「命の重さ」
それでは、受精卵が分裂し始めたばかりの頃の細胞であればどうでしょうか。受精卵が分裂を開始してから胎児になるまでの細胞の塊を「胚」といい、胚から取り出した幹細胞をES細胞(胚性幹細胞)といいます。1981年にマウスのES細胞が発見され、1998年にはヒトのES細胞も発見されました。
ES細胞は、胎盤以外のすべての細胞に分化できることがわかり、受精卵のような「全能性」はありませんが、ほぼすべての細胞に分化できるということで、ES細胞は「万能細胞」と呼ばれるようになりました。万能細胞を使えば、体内のすべての器官を再生できるなど、医療に飛躍的な進歩があるのではないかと期待が膨らみました。
しかし、ここで立ちはだかったのが「ヒトのES細胞はヒトの受精卵を壊して取り出す細胞である」という事実です。そのまま育てばヒトになる可能性があるものを壊すのは、ヒトをヒトの手で殺す研究であると考え、反対する人も大勢いました。宗教的にもカトリック教会がES細胞を宗教的に認めないと公式に声明を出すなど、大きな問題になったのです。
また、ES細胞を使った移植・再生医療を考えるとき、想定されるもう一つの問題が、「拒絶」です。ヒトの体は自分とは違う遺伝子が体内に入ると拒絶反応を起こし、場合によっては命にかかわります。
「それなら、受精卵や胚を使わずに、患者自身の体細胞をどのような細胞にでも分化できる状態に戻す『初期化』によって、万能幹細胞を作ればいい」というのが山中教授のアイデアでした。このアイデアは、マウスの体細胞とES細胞を電気的に融合させたときに初期化が起こったという実験結果からひらめいたものです。「ES細胞の中に細胞を初期化する何かがあるかもしれない」という思いつきから遺伝子を調べ、2006年に最終的に初期化に必要な4つの遺伝子を特定しました。
4つの遺伝子それぞれが、細胞の中でどのような働きをして初期化が発生するのか、その原理はまだ完全には解明されていません。しかし、ES細胞とは異なり、iPS細胞は「ヒトの胚を壊す」という生命倫理の問題を回避することができ、また移植や再生医療に応用する場合も患者自身の細胞を使うことで拒絶反応を抑えられます。また、作成の方法も、遺伝子の特定さえできてしまえば比較的簡単だったことで、一気に注目を集めることになったのです。
iPS細胞の応用が期待される分野
マウスのiPS細胞の誕生から6年が経過し、現在はヒトの細胞からのiPS細胞作成、血小板や神経細胞などの細胞や、肝臓、膵臓などの特定の臓器を作る細胞、インスリン分泌器官など特定の機能を持つ体内の器官を作成することに成功するなど、大きな進展がありました。多くのベンチャー企業がiPS細胞から作成した体細胞を製品化しており、今後の成長産業として期待されています。
では、iPS細胞はどのように役立つのでしょうか。分野としては、以下のようなものがあげられます。
○新薬の開発
効果を調べたい薬剤をiPS細胞から作った細胞にかけることで、効果や副作用を正確に調べられます。2009年には、iPS細胞から作った心筋細胞に心臓に悪影響を与える薬剤をかけることで、不整脈と同様の波形が検出されることが確認されています。
心臓への副作用は従来動物実験で検証することが難しかったため、ヒトへの臨床試験を行わなくては確認できませんでしたが、この手法を使えばもっと早い段階で、患者に負担をかけることなく調べることができます。新薬開発にかかるコストを抑えることができ、製薬会社が多くの新薬開発にチャレンジしやすくなることが期待できます。
○再生医療
患者自身のiPS細胞から作成した器官や細胞を移植することで、失われた機能を回復する効果が期待できます。理化学研究所などにより、間もなく臨床実験が進められる予定で準備が進められているのが、年齢とともに網膜が変化して視力を失う「加齢黄斑変性症」の治療です。患者自身の皮膚細胞を初期化して作成したiPS細胞から分化させた「網膜色素上皮細胞」を網膜裏に移植し、効果と安全性を確認します。
患者自身の細胞を使えば拒絶反応は抑えられますが、早急に移植治療が必要になるようなケースでは、必要になってから患者自身のiPS細胞を作成し、分化させていたのでは治療が間に合いません。山中教授自らが構想しているのが、「iPS細胞バンク」です。拒絶反応が起こるかどうかを決める「HLA型」という免疫の型のうち、拒絶反応を起こしにくいタイプの型を持つiPS細胞をあらかじめストックしておき、患者のHLA型に応じて適合したiPS細胞から目的の細胞を分化させることで素早く目的の細胞を入手できるようにします。HLA型は数万種類ありますが、そのうち150種類をそろえれば、日本人の9割はカバーできる見込みだということです。
○病態解明
「細胞の初期化」は、いわば細胞の成長を巻き戻すことであり、初期化後の細胞が分化する過程を観察することで、病気がどのようなメカニズムで発病するのかを明らかにできます。どの遺伝子が作用しているのか、どのようなタンパク質が作用しているのかなどがわかれば、薬を作るヒントが得られます。
2012年8月には、京都大学iPS細胞研究所で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者の細胞から作成したiPS細胞から分化させた運動ニューロン(脳から骨格筋に指令を伝える神経細胞)を用いて、細胞レベルでどのような異常が発生しているのかを明らかにしました。その結果、特定のタンパクを合成するRNAの代謝に作用する化合物が、異常の改善に役立つことがわかりました。
ALSは運動ニューロンが変性することで全身が動かなくなり、やがて死にいたる難病です。しかし、この研究で治療薬を探す手がかりが得られました。
○遺伝子治療
遺伝性の病気を持つ患者からとったiPS細胞をもとに細胞培養する時に、病気の原因となっている遺伝子を正常なものとおきかえる「遺伝子治療」が可能になると考えられています。2011年にマウスを使った動物実験では、先天性肝疾患を持った患者のiPS細胞から肝細胞に分化させる過程で、原因の遺伝子を正常な遺伝子に置き換えて同じ肝硬変の遺伝子を持ったマウスに移植したところ、肝硬変が治ったという成果が得られています。
遺伝子治療による長期的な影響などについてはまだ未知であり、ヒトの臨床応用にはまだ明らかにすべき課題がたくさんありますが、従来は治療が難しかった遺伝的疾患の根本的な治療につながる可能性があります。
さまざまな可能性があるiPS細胞ですが、臨床治療手法を確立するためには、iPS細胞そのものを効率よく作るための技術や、目的の組織に分化させるための技術、培養した組織をヒトに移植したときの影響の解明など、まだまだ課題はたくさんあります。ノーベル賞受賞の記者会見で山中教授は、「この研究ではまだ、たった一人の患者さんも救っていない」と語りました。多くの研究者や企業が有望な技術として研究に取り組むことで、これから多くの人を救える技術になるのです。
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著者プロフィール:板垣朝子(イタガキアサコ)
1966年大阪府出身。京都大学理学部卒業。独立系SIベンダーに6年間勤務の後、フリーランス。インターネットを中心としたIT系を専門分野として、執筆・Webプロデュース・コンサルティングなどを手がける
著書/共著書
「WindowsとMacintoshを一緒に使う本」 「HTMLレイアウトスタイル辞典」(ともに秀和システム)
「誰でも成功するインターネット導入法—今から始める企業のためのITソリューション20事例 」(リックテレコム)
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