VOL.O1
最先端のAIテクノロジーと
TDKの磁性技術のコラボレーション
技術の多様化と進歩が目まぐるしい現代社会においては、数年先の世界を予測することさえ困難ですが、これからのライフスタイルやビジネス、産業、医療などを激変させるほどのインパクトをもつといわれるのがAI(人工知能)テクノロジーです。さらには、センサ技術などにより、あらゆるモノがインターネットを通じてつながるIoT社会へと、新たな進化を遂げようとしています。
しかし、こうした未来社会を実現するには、解決しなければならない技術課題があります。爆発的に増大するデータをネット経由でクラウドに送って処理する従来型の方式では、クラウドAIの負担は大きくなり、電力消費も増大してしまうことです。
そのソリューションとして、近年、注目されているのが“エッジAI”と“リザバーコンピューティング”という技術です。
TDKは近未来のAI/IoT社会を見据えて、北海道大学 大学院情報科学研究院の浅井哲也教授とともに、磁性技術を生かした全く新たなアーキテクチュアのAIデバイスの共同開発に挑んでいます。浅井哲也教授とTDK技術・知財本部 次世代電子部品開発部第2開発室の佐々木智生室長に、AIテクノロジーがかかえる技術課題と、その先に見える未来について語っていただきました。
PROFILE
浅井 哲也 教授(左)
北海道大学
大学院情報科学研究院 教授
情報エレクトロニクス部門
集積システム分野
集積ナノシステム研究室
佐々木 智生(右)
TDK株式会社 技術・知財本部
応用製品開発センター
次世代電子部品開発部
第2開発室 室長
スピントロニクス技術を
AI研究に生かす
浅井:現在、TDKとAIデバイスの共同開発に取り組んでいますが、そもそもTDKのコア技術といえば磁性ですよね。それがなぜAI分野に取り組むことになったのか、ということをまず聞いてみたいです。
佐々木:先生がおっしゃるとおり、TDKは世界初のフェライトコアの商品化から始まって、音楽用カセットテープ、そしてパソコンやデータサーバなどに使われているHDD(ハードディスクドライブ)の磁気ヘッドと、ずっと磁性技術を応用した製品を提供してきました。
その延長で取り組んでいるのが、電子のもつ電荷とスピンの双方を利用するスピントロニクス*技術のAIデバイスへの応用です。
TDKはこれまでにも、HDDヘッドの再生素子であるTMR素子や、TMR素子を応用した高感度な磁気センサの製品化など、スピントロニクスの応用に関しては先駆的な実績があります。
TDKの磁性技術により、
社会にインパクトを与えた
4大イノベーション
Innovation01
フェライト
Innovation02
音楽用カセットテープ
Innovation03
ファイン積層テクノロジー
Innovation04
薄膜ヘッド技術
–––たとえば、このスピントロニクスをメモリに応用することで、小型・省電力で大容量の不揮発性メモリが実現できます。未来を見据えて、それがどんな応用の道を切り開くのかを考えたときに、AIデバイスを社会インフラに実装するための技術になるのではないかと気づき、AIという分野への取り組みを始めました。
ただ、TDKにデバイスは作れても、AIのアーキテクチャや回路設計については弱いので、その点を強みとするパートナーになっていただける先生を探していました。
論文をもとにピックアップした先生が何人かいらして、その中のお一人が浅井先生でした。実際に会ってお話してみると、狙っているターゲットや考え方がとても近かったので、ぜひパートナーとして一緒に研究をしていきたいとお願いしたのが、2017年の12月頃でした。まさに運命の出会いだったかもしれません。
スピン磁気モーメント
荷電粒子である電子は自転に似た回転運動(スピン)をしているため、微細な磁石としての性質(スピン磁気モーメント)をもつ。
TMR素子
外部磁界の強さによりフリー層の磁化の向きが変わり、電流の大きさが変化する。
TDKのTMRセンサ
角度センサや回転センサなど
用途は多彩。
エッジAIは計算量を抑えつつ高度な知的機能を実現するアーキテクチャ
佐々木:いまのクラウドAI*の基本動作は、センサなどで取り込んだ情報をクラウドで処理して結果を返すというものですが、IoTなどの普及により、今後センサの数が増えると、データの量も計算の量も膨大になります。大量のデータをクラウドとの間で送受信するとなると、演算を行うための時間も膨大になり、電力消費の増大が大きな課題となります。
これを解決するために考えられているのが、エッジAI*というアーキテクチャです。
*KEYWORD
クラウドAI:ネット経由でクラウド側のAIでデータ処理して学習や予測などを行う従来型のAIアーキテクチャ。大量のデータ処理には有利ですが、自動運転など、リアルタイム性が求められる用途ではデータの送受信にともなう遅延問題が避けられません。
エッジAI:無線通信技術を利用して、ユーザの端末の周辺部(エッジ)にAIデバイスを配置してデータ処理する分散型のAIアーキテクチャ。IoTデバイスからのデータの高速処理や、リアルタイム性が求められる用途に有利。
リザバーコンピューティングとは?
浅井:エッジAIという言葉は、最近よく見聞きするようになりましたが、我々の身近にはまだそれほど入ってきていません。たとえば、学習機能をもつスマートスピーカ(AIスピーカ)のようなものは、端末にAIは入っていなくて、基本的にはデータセンター側で処理をしています。また、クラウドAIからエッジAIに切り替えても、今度はエッジ側が学習機能を担うことになり、データセンター側にかわって、エッジ側での負担が増え、電力消費が増大することになる。いかに学習の計算量を抑えて、かつAIの高い知的機能は維持するかが、エッジAIにおけるきわめて重要な課題となります。
佐々木:そこで、我々が着目しているのが、リザバーコンピューティング*という新しい概念です。ディープラーニング(深層学習)*などを可能にするニューラルネットワークの学習モデルは人間の大脳を模したものですが、これに対してリザバーコンピューティングは小脳を模したモデルと言われていますね。
*KEYWORD
リザバーコンピューティング:小脳の機能をモデル化したもので、入力層、リザバー層(フィードバック結合するニューロン群)、出力層の3層からなるシンプルな情報処理構造が特長。リザバーとは“貯水池”という意味で、リザバーに蓄えられた過去のデータをもとに、計算量を抑えつつ、未来予測などの高度な知的機能を実現するのがリザバーコンピューティングです。リアルタイム性が求められるエッジAI、IoTデバイスのセンサデータなど、時系列データを低消費電力で高速処理する用途に向いています。
ディープラーニング:深層学習。大脳の機能をモデル化した多層構造のニューラルネットワークにより、膨大なデータから自動的に特徴を抽出する高度な機械学習を可能にします。画像認識や音声認識などに利用されていますが、計算量が多いため処理時間が長く、電力消費が大きくなるのが難点です。
浅井:大脳は記憶や論理的な考え方に関わりますが、小脳は運動機能に関わります。たとえば、モノが落ちそうになったとき、反射的に手をのばすのは、大脳で考えてそうしているわけではなくて、「この状態になったものは落下する」という経験に基づいて身体が動くわけですよね。そのときの計算量というのは、それほど多くないのです。
リザバーコンピューティングによる情報処理の違い
ニューラルネットワーク
(ディープラーニング)
- ●大脳の機能をモデル化。
- ●入力層と出力層の間に、
複数の中間層をもつ階層的ニューラルネットワーク。 - ●計算量が多く、処理時間が長くなるため、電力消費が大きい。
リザバーコンピューティング
- ●小脳の機能をモデル化。
- ●入力層、リザバー層、出力層からなるシンプル構造。
- ●計算量が少なく、処理時間が短いため、電力消費が小さい。
時系列データを高速処理する用途に向く。
過去の経験をもとに、少ない計算量で効率的に未来予測
浅井:リザバーコンピューティングができることは、ざっくり言うと、過去の経験をもとに、少ない計算量で未来予測することです。それは我々が日常的に行っていることで、勘のいい人なら3つ、4つ前の事象から次を予測します。
リザバーコンピューティングの仕組みを取り入れると、10も20も前の、深い過去の事象をもとに、少ない計算量で未来予測できるようになります。計算量が少ないということは、処理時間が短く、消費電力が少なくなることを意味します。
私自身の専門は、ディープラーニングのアーキテクチャや、リザバーコンピューティングのアーキテクチャとその応用ですが、佐々木さんにはそれらを実現するデバイスの開発や、デバイスと組み合わせたTDKのセンサの利用を視野に入れていただき、共同研究を進めています。
電子回路でリザバーのプロトタイプを共同開発中
デバイスとはいっても、LSIチップのように緻密な配線で回路を組むのではなく、たとえば相互に影響しあう分子の凝集体のようなものをリザバーとして、そこに外部から信号を与えたときの出力を読み取ることで、ディープラーニングのような予測機能が生み出せるのではと考えています。
今、こうしたAIデバイスを作る前段階として、電子回路でリザバーのプロトタイプを佐々木さんと共同開発しています。
具体的には、1個の分子に見立てた回路を10cm四方ぐらいのボードに配置します。リザバーで過去の事象から予測をさせようと思うと、300個から500個の分子が必要になりますので、これを16×16並べると、だいたい大きめの会議室の机ぐらいになります。
非常に大きなものですが、コンピュータ・シミュレーションではなく、実物として動くデモンストレーションを見せたい。それがあれば、あとは集積技術を使うことでサイズや電力消費量が下げられるというロードマップが作れます。
佐々木:そこが、リザバーコンピューティングのデバイスとしてのモノづくりの視点から見たときの面白さです。モノづくりをする人は、実際に動くものを見ると、いろいろとイメージがふくらむので、議論が活発になるんですよ。こういう処理に使うにはどんな機能が必要だとか、今までは想像に基づいて考えていたことが実物で確かめられるようになることで、多くの人の目が向くようになる。すると、さまざまな技術を使って機能を集積することができるし、作った人が想像もしなかった価値が生まれる可能性もあります。
不揮発性メモリは、人間スケールに合わせて時間を止められるのがメリット
浅井:エッジAIでの活用を考えると、難しいのは処理の時間を人間のスケールに合わせることです。物理リザバー研究で今、一番熱いのは、光やスピントロニクス分野なのですが、これらのリザバーのダイナミクスは実生活の時間スケールと比較して速すぎます。たとえば、1ナノ秒あたり1個のデータを流し込むとか、身の回りの時間スケールではありえないですよね。データセンターのような、大容量のデータを高速に処理することが求められるところでは「速いことはいいこと」だけれども、人間の身の回りの時間というのは、例えば1秒に1個のデータとか、そのくらいの遅さで動くものを作らないといけない。
佐々木:その回路を小型化していくために、最初にお話したスピントロニクスの技術を応用できないかと考えています。磁気と電子のスピンは相互作用しますし、新たな不揮発性メモリとして注目されているMRAM*などは、ある意味時間を止めるようなものですから。
*KEYWORD
MRAM:電源を切っても情報が保たれるメモリを不揮発性メモリといいます。
TMR素子は、外部磁界の向きに応じてスピンの向きが変わると、素子の電気抵抗が変わり、流れる電流も変化します。これを0か1かのデジタル情報として読み書きすることにより、不揮発性メモリであるMRAM(磁気抵抗メモリ)が実現します。小型・高速アクセス、低消費電力などが特長です。
浅井:止められるのって非常に強いですよね。自然ダイナミクスを使うアナログ物理リザバーの動作自体は止められないのですが、その状態をもし保持することができるのであれば、リザバーを作用させて、作用させた状態で少し止めて、ゆっくり全部読み、読んだ後にまた入力をゆっくり入れる。その後にまたリザバーを作用させてというようなことができるようになる。つまり、不揮発性のメモリを物理リザバーの動的素子として使うことで、人間スケールの時間で動作するリザバーがかなり現実的になるんです。
AIの発展は世の中の考え方や価値観を大きく変えてしまう可能性がある
佐々木:今はこうして、浅井先生とTDKは一緒にエッジAIを実現するリザバーのアーキテクチャに取り組んでいますが、これは一つの通過点と思っています。浅井先生はこの先に、何を見ているのでしょう。
浅井:リザバーもディープラーニングも、脳の一部を切り出した構造が情報処理装置となっています。ヒトがリザバーやディープラーニングを情報処理装置として使っているのです。ただ、脳から切り出した構造で「役に立つ新しいアプリケーション」を生み出すことは簡単ではありませんし、この先少し行き詰まり感も出てくるのではないかと思います。でも最近、私はちょっと発想を変えて、脳の中のリザバーに相当する部分を、人工的なリザバーに置き換えて「脳にリザバーを利用させる」ということを考えています。
今は、ラットの脳のリザバーに相当すると指摘されている部位を人工リザバーで置き換えるような研究を進めています。置き換えることで、ラットが迷路を解く予測能力が上がるなんてことがあったら、ものすごくインパクトがありますよね。それが実現できれば、AIの使い方は根本的に変わります。AIを自分たちの手足を使って役に立つように使うのではなく、人間の脳が人工AIデバイス(脳の構造に近いニューロモルフィックデバイス)を無意識に使うようになる。まるでSFのサイボークのように脳の中にニューロモルフィックデバイスを入れ込む。その意味で、この研究を「サイバネティック・ニューロモルフィック・コンピューティング」と名付けました。人間の能力を飛躍的に高めることができるという未来を夢見て研究を進めています。佐々木さんはいかがですか?
ヒトの脳は約1500億個の神経細胞からなり、それらは電気信号を発して、
巨大なネットワークを形成している。
佐々木:私はまた違う方向で、エッジコンピューティングやリザバーが実現すると、人間社会の考え方が変わってくるのではないかと思っています。今のコンピューティングって、「A」という問いに必ず「B」という答えがある。でも、人間の答えには曖昧さがあって、それも含めて人間の個性です。AIが実現するということは、コンピューティングの世界でもそういうものを許容していくということになるので、それが社会的にどんな影響を与えていくのかということに興味があります。
デバイスの曖昧さをどこまで許容するのか、それは作る側の論理だけではなく、社会の人々の価値観に依存します。今後、必ず議論が起こるはずで、それに対してどう適合していくのか。許容できないとなれば、それは単に使えない技術、使わない技術と判断されてしまうので、どこまで世の中と自分たちの技術をすり合わせていくのかは今後の課題になるでしょう。その意味で、今の研究は世の中の考え方や価値観を変える技術になるので、冷静に見極めてモノづくりをしていきたいと思います。