Report
【連載】TECH-MAG 研究室レポート
この研究が未来を創る vol.18
取材日:2021.08.23
生命現象をシステムレベルで理解し、人の生活を豊かにする
慶應義塾大学理工学部生命情報学科
生命システム情報専修
舟橋 啓
教科書に書かれていない
一歩先を知る
vol.
18
OPENING
私たちは生きる上で酸素が必要ですから、呼吸をします。呼吸すると体内に酸素が取り込まれますが、なぜ空気を吸うと酸素が吸収されるのか、その「仕組み」を理解することも重要です。これはあくまで一例ですが、こうした「生命現象」をシステムレベルで理解する研究を行っているのが、慶應義塾大学の舟橋啓准教授です。今回は、先生が専門とする「生命情報学」という学問の魅力や、現在取り組まれている研究内容などを伺いました。
Profile
舟橋 啓(ふなはし あきら)
先生
慶應義塾大学理工学部生命情報学科 生命システム情報専修 准教授。
2000年3月、慶應義塾理工学研究科 計算機科学専攻、大学院修了。三重大学工学部情報工学科助手、科学技術振興機構 ERATO 北野共生システムプロジェクト研究員、慶應義塾大学理工学部生命情報学科専任講師を経て、2009年4月より現職。
舟橋研究室HP
https://fun.bio.keio.ac.jp/
生物学は「なぜ」を追究する時代になっている
先生が取り組んでいる学問について教えてください。
生命情報学は、生命の仕組みを数字で表す学問です。生命現象において、何が起こるのかの「結果」は分かっていても、なぜそうなるのかの「過程」は、解明されていない部分が多くあります。その過程を解き明かす方法の一つが、生命現象をシステムとして考えること。これを「システム生物学」といいます。端的に言えば、「数式で生命のシステムを表現し、理解を深める学問」と考えてもらえるといいかもしれません。
生物学といえば、解剖するとか臓器の名前や位置を覚えるという印象がありますが、それとは異なるのですね。
中学や高校の生物学は社会科と変わらない「暗記科目」です。以前は生物学そのものが覚える学問でしたが、今の生物学は以前と変わりました。人の遺伝子の数など「何があるのか」はすでに解き明かされているため、今度は「遺伝子やタンパク質がどう働いているのか」という「なぜ」を考える時代になっています。
物語に例えると、今まではどんな人物が登場するのかを調べていました。しかし、今は登場人物がどのように動いて、ストーリーを形作っていくのかを知る時代になったということです。
理解が深まると今度は「予測」も可能になります。例えば、薬が体にどのように作用していくのかが分かれば、よりうまく作用させる方法を模索することが可能になります。そのため、特に医療分野での貢献が期待される学問だといえます。
細胞をAIで解析して次の動きを予測
2019年に「細胞が次にどちらの方向に動くのかをAIで予測する」という研究発表で大きな注目を集めました。
もともとは、「顕微鏡で撮影した細胞の画像から、細胞の状態を判断する」という研究でした。例えば、その細胞が「がん細胞」なのか「正常な細胞なのか」が画像で分かれば、診断に役立ちますよね。そのため、顕微鏡の画像から細胞の状態を当てたいと考えていました。
当時は画像解析でアプローチしていましたが、なかなか結果が出ませんでした。ところが、2015年ぐらいに機械学習、ディープラーニングによる画像解析が注目され始めました。そこで、私たちの研究室でもディープラーニングを用いて、細胞の状態を画像から判断する研究を始めることにしました。
そのころは、細胞の画像から「現在どうなっているのか」を調べる研究が多く行われていましたが、われわれは現在ではなく、「未来」を調べることができないかと考えました。未来予測へのアプローチとして、まずは「細胞が次にどう動くのかを写真から正確に判別すること」に挑戦したのです。
どのような方法で動く方向を調べたのでしょうか?
畳み込みニューラルネットワーク(人間の視覚をモデルに考案されたアルゴリズムを用いたニューラルネットワーク)を使い、画像から細胞の動く方向を高確率で当てられるAIを作りました。その結果、80%以上の精度で予測することを可能にしました。とはいえ、高い精度で予測することだけでなく、なぜ高い精度で当てられるのかを調べることも重要です。そのため、人工知能の「中身」を解析したところ、実は特殊な解析方法や知識を用いているのではなく、生物の教科書に書かれているような「普通に得られる情報」を使って学習し、高い精度で判別していたことが判明したのです。
AIは特殊なことはしていなかったのですね。
そうです。われわれも特殊な情報は与えていませんが、これまでに人が培ってきた「生物の情報」を根拠に、動く方向を当てていたのです。つまり、用いる情報は同じなのに、AIは人では難しいことを成し遂げていたのです。これは面白い発見でしたね。大きな可能性を感じました。
システムの解析が社会問題の解決につながる
他にどのような研究を行っていますか?
2020年には、ネムリユスリカ由来のPv11細胞という、「乾燥しても死なない細胞」を研究し、どのように死を回避しているのかのシステムを解明しました。生き物は乾燥すると体内の水分がなくなって死んでしまいますが、ネムリユスリカの幼虫は、乾燥すると体内で特殊な物質を作り出し、乾燥に長く耐えられる状態になります。カップラーメンの具材のようにカラカラになりますが、それでも生きていて、何年か経って水を与えると復活するのです。今回の研究では、この生物が持つ乾燥耐性機構の、「ON/OFF を調節する遺伝子制御システム」を同定しました。
乾燥させても復活する仕組みが分かれば、人を乾燥させて宇宙に飛ばし、数百年後に自動で水をかけて復活させるといった、夢のようなことができないかと考えています。極限の環境でも生きられる珍しい動物は何種類も発見されており、そうした生き物のシステムを解析することが今後大事になってくるのではないでしょうか。
先生の研究は世の中にどのような影響を与えますか?
先ほども挙げたように、医療分野での貢献が期待されます。例えば、イギリスの大学と「乳がんの予後を判断する方法」を共同研究しています。患者さんから採取した組織を解析し、何カ月後に再発するのかなどの予後(未来)を、AIを用いて予測するという取り組みです。
また、AIで「生まれやすい受精卵を調べる」という研究も行っています。不妊治療の一つに「体外受精」があります。これは、体外で人工的に受精させた受精卵を母体に戻すことで着床を促す治療法ですが、国内での体外受精による妊娠成功率は12.6%に留まっています。体外受精は必ずしも妊娠するわけではないのに、母体への負荷は大きく、高額な治療費もかかります。何度もチャンスがあるわけではないので、ベストな受精卵を選ぶことが求められますが、人の手でベストな受精卵を選ぶのは難しいのが現状です。
そのため、AIによる画像解析で、ベストな受精卵を選ぶ研究を行っています。まだマウスでの実験段階ですが、83%と高い精度で選別できており、もしかすると不妊治療の技術を大きく変えることができるかもしれないと思っています。
身の回りの生命現象を数式で解析し、システムを理解するという私たちの研究が、人や社会に貢献できればうれしいですね。
設計図のない世界だからこそ面白い
研究の課題や魅力を教えてください。
教科書に書かれていない一歩先のことが分かるのは面白いですね。私が「なんでも理由を知りたがるタイプ」なので、いろんな生き物の「なぜ」が理解できると満足しますし、それがモチベーションにもつながっています。
先ほども話しましたが、AIが人と同じ情報を基に解析していたことが分かるなど、「想定外の結果」が出た瞬間は楽しいですね。「おおっ!」と思います。予想どおりに進むと面白くないですから。
反対に難しいことは何でしょうか?
「生き物が相手」という点です。私はもともと工学の人間でコンピューターに携わっていました。コンピューターは基本的に設計図のとおりに作れば動きますが、生物は教科書どおりではありません。そもそも設計図もありませんし、何をどうすればいいのか、正解がない中で実験を行うので失敗がものすごく多い。とにかく予想どおりにいきませんね。
先生はなぜ理系の道に進んだのでしょうか?
気付いたら算数や理科が好きでした。でも本は数多く読んだので国語も嫌いではなかったのだと思います。工学の道を選んだのは、小学、中学時代にちょうどコンピューターなるものが世の中に出てきて、初めて触ったときに面白かったからですね。そのときに「コンピューターに携わる仕事がしたい」と思い、大学もその分野に進みました。
そのため、コンピューターの専門家になるつもりでしたが、2000年ぐらいに「人の遺伝子が全て分かった」のをきっかけに生き物に興味を持ちました。生き物が数字で語れる時代が到来したのです。当時ちょうど30歳で、次の10年間何をしようと考えたとき、コンピューターと絡めて人を知る、生物を知る何かをしようと考えました。
そこから生物の研究にのめり込んだ理由は?
やはり知らないことばかりだったからでしょうか。日々新しい発見ばかりで面白かったですね。自分の知識が足りないこともありますが、生物は未知の領域が多く、驚くことも多くあります。すごく刺激的な分野だと感じたのが、この研究は面白いと思った理由ですね。
今後も生命現象の「なぜ」を解き明かす
今後の展望を教えてください。
直近では新型コロナウイルスの研究ですね。感染するとどんな症状が出るのかはある程度分かっていますが、症状が出る理由については分からないことが多くあります。ウイルスからどんな分子が出て、その分子が人の体内でどのような反応を起こしているのかの理由は分かっていません。その理由を調べましょう、というのを世界30カ国の研究機関と共同で行っています。
あとはAIがどれだけ賢いのかを調べたいです。AIの可能性ですね。例えば、人の年齢でいえば何歳ぐらいの知能と同じことができるのかなどです。今のところ、AIは数学の積分ができるのかを検証していますが、この先かなりすごいことができるのではと期待しています。
興味が尽きることはありませんね。
今は新型コロナウイルスのワクチンに対して不安を感じている人が多くいますが、これはどんな副作用が出るのか分からないからです。どのように作用するのかが分かっていないのは、科学として未完成なのではないかなと思います。私たちの研究分野はまだまだ未知の部分が多いので、今後も「なぜ」の部分を追究していきたいと思います。
学生へのメッセージをお願いします。
自分が今研究者をしているのも「常に何かに興味を持っていた」からだと思います。大学進学をはじめ、人生の転機において「興味・関心があったもの」が助けてくれました。研究者は自分が何が好きか、何に興味があるのかが大事です。研究はいいことばかりではありません。失敗も多く経験します。これから研究者を目指すのなら、失敗に負けないような強い「好き」という気持ちを持ってほしいです。きっと研究者になったときの強みになるはずです。
今回の記事を見て、「先生の研究室で学びたい」という学生が増えると思いますが、どんな学生に入ってもらいたいですか?
まずは元気な人がいいですね(笑)。今の若い子は優秀ですし、真面目ですよね。これからを担っていくという強い勢いも感じています。また、人が作った問題が解けることは研究には関係ありません。テスト問題が解けることと研究ができることは一致しないと思います。大事なことは「新しいものにためらいなく挑戦できること」です。そうしたチャレンジ精神のある学生を歓迎します。
ありがとうございました。
NEW GENERATIONS INTERVIEW
舟橋先生の研究室で学ぶ徳岡雄大さんに、現在取り組んでいる研究の内容や、大学で研究する面白さなどを聞きました。
現在担当している研究内容を教えてください。
先ほど先生が話した、「受精卵をAIで選別する研究」を担当しています。不妊治療を希望しているカップルは先進国では5.5組に1組と高い割合です。しかし、成功率は高くなく、母体への負担や高額な治療費などネックも多く、社会問題になっています。そのため、どんな卵を選べば生まれるのかを人工知能で解析するだけでなく、なぜその卵が生まれやすいのか、なぜAIがその卵を選んだのかといった点も含め研究しています。
具体的にどのような取り組みをしているのでしょうか?
現在はマウスの卵を撮影した画像をAIで解析する作業を行っています。画像を見てどのように画像処理を施すのか、AIにどんな学習を行えば、効果的な判別ができるのか、プログラミング⇒実験⇒プログラミングといった作業の繰り返しです。
研究の面白い点、難しい点を教えてください。
やはり舟橋研のテーマでもある「なぜ」を追究することが面白いですね。仕組みや作用を理解するのは楽しいですし、新しい発見や学びがあるとモチベーションも高まります。ただ、前例のない中での挑戦なので、行き詰まったときの突破口がなかなか見つからず苦労しています。
大学で研究することの魅力はどんな点でしょうか?
同じように意欲的に研究に取り組んでいる人が周りにたくさんいるので、常に刺激を受けながら研究できることでしょうか。行き詰まったときも、いろんな人からアドバイスがもらえるので、それが楽しいですね。また、「自分がしたい研究ができる」のも大学で研究する魅力だと思います。自分の興味のあることを高いレベルで追究したいという人は、大学の研究室を目指すのもいいかもしれないです。
意欲的な後輩が入ってきてくれるとうれしいですね。
勉強が得意でないと研究ができないと思っている人も多いのですが、先生もおっしゃっていたように、必ずしもそうではないと思います。もちろん必要な知識はありますが、「研究を進める力=勉強ができること」ではないので、遠慮することなく、いろんな考えや関心を持っている人に入ってほしいです。
ENDING
生き物が見せる現象をシステムで解析するという舟橋先生の研究。特に、現在取り組んでいる「受精卵をAIで選別する研究」は、日本など先進国の社会問題解決に貢献できる可能性が高く、注目を集めています。医療をはじめ、私たちの生活に大きな影響を与える研究だけに、今後も目が離せませんね。
文:中田ボンベ@dcp
写真:今井 裕治