Report
【連載】TECH-MAG 研究室レポート
この研究が未来を創る vol.10
取材日:2020.07.31
味・匂いというあいまいな世界を数値化する「味覚・嗅覚センサ」
九州大学 五感応用デバイス研究開発センター
都甲 潔
研究が好奇心を刺激し、
心を癒してくれる
vol.
10
OPENING
「甘い」「塩辛い」といった味は人によって感じ方が異なるもの。そのため、「味覚を測定するのは難しい」と長年いわれてきましたが、九州大学の都甲潔先生は世界で初めて「味覚を測るセンサ」を作り、味の数値化に成功しました。さらに、近年は匂いを感知する「嗅覚センサ」も開発中で、さまざまな分野での活用が期待されています。今回は、この「味覚・嗅覚センサ」について都甲先生にお話を伺いました。
Profile
都甲 潔(とこう きよし)先生
九州大学高等研究院 特別主幹教授、
五感応用デバイス研究開発センター 特任教授。
北九州生まれ福岡育ち。1980年、九州大学大学院工学研究科電子工学専攻博士課程修了後、同大学工学部電子工学科助手および助教授を経て、1997年同大学大学院システム情報科学研究院教授着任。その後は一貫して同研究院に在籍、2008年同研究院長、2010年同主幹教授、2013年味覚・嗅覚センサ研究開発センター長(現五感応用デバイス研究開発センター)に。その間、2006年度文部科学大臣表彰・科学技術賞、2013年春の紫綬褒章など、世界初の味覚センサを開発した功績による受賞多数。『味覚を科学する』(角川選書)、『プリンに醤油でウニになる』(ソフトバンククリエイティブ)など20冊以上の著書を手がけ、『世界一受けたい授業』(日本テレビ系列)などメディア出演も多い。
人の味覚を再現するセンサ
まず、先生が開発された「味覚センサ」について教えてください。
味覚センサは、文字どおり「味覚を再現したセンサ」です。人の「舌」と同じ仕組みになっており、「甘味」「酸味」「苦味」「塩味」「うま味」の5つの味の「質」や、その「強度」を測ることができます。
そもそも、「味覚と嗅覚」についてご存じでしょうか? 人の感覚は視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の5つに分類されます。このうち視覚は光を感じる、聴覚は音波を耳で受け取る、触覚は圧力などを皮膚で感じるもので、「物理感覚」と呼ばれます。一方、嗅覚と味覚は化学物質が鼻腔や舌に触れることで生じる「化学感覚」と呼ばれています。
皆さんが味を感じることができるのは、舌に「味細胞」という味を感じる細胞があるからです。味細胞の生体膜には味を感じ取る受容体がありますが、1つの味細胞につき1種類の味にしか対応していません。つまり、Aという味細胞には「酸味」を感じ取る受容体があり、Bという味細胞には「甘味」を感じ取る受容体がある、といった具合です。
舌にはそれぞれの味を感じ取る5種類の味細胞が並んでいるのですね。
そうです。何か食べものを口に入れた際は、この味細胞の受容体が酸味や甘味といった味の質を判別します。例えば、舌に電極を差し込んで、甘いと感じた場合や酸っぱいと感じた際の電位の応答を記録すると、味の質や強度が分かります。
味覚センサは、こうした味細胞の生体膜を人工脂質膜で模倣したものです。受容膜に味のもととなる化学物質が触れると電圧が変化するので、その情報をコンピュータで集計し、味の質と強度を測定します。
実際の舌と同じように、味の質それぞれの受容膜があるので、甘味の受容膜で応答があれば甘いということですし、苦味の受容膜で応答があれば苦いということが分かります。
人の嗅覚も緻密に再現
次に「嗅覚センサ」について教えてください。
嗅覚センサも味覚センサと同様に人の嗅覚を模倣したものです。鼻の中の細胞には、匂いを感じ取る受容体があり、化学物質を感知するとその情報を嗅球という組織に運びます。嗅球は脳に匂いの情報をインプットする役割を持っており、脳は嗅球から得た情報を基に過去の情報と照らし合わせ、何の匂いなのかを判別します。これが匂いを感じる仕組みです。
味覚は先述のように舌の受容体に触れた時点で味の質・強度を判定しています。しかし、匂いは嗅覚の受容体で感知した時点では何の匂いなのか判別せず、最終的に脳で処理する仕組みです
食べ物の場合、どんな料理なのか分からなくても、とりあえず食べれば甘い、酸っぱいといった味は分かります。これは味には「基本となる味」があるからです。しかし、匂いの場合は「基本臭」がないため、知らない匂い、記憶していない匂いの場合は何の匂いなのか分からず、好きか嫌いかの判定もできません。匂いは完全に「記憶学習」によるものなので、嗅覚センサには感知した匂いを判別する「AI」も必要としています。
「AI」は人間の脳の代わりとなるのですね。
はい、そうです。人の嗅覚の受容体は約400種類もありますが、400もある嗅覚の受容体を再現することはすぐにはできないので、私どもはそのうち16の受容体を再現した「16Chケモレジスタンスセンサ」を開発しました。電極部分に16種の異なる材料を塗り分けており、この電極部分に匂いのもととなる物質が触れると電圧が変化し、その応答パターンをAIで判別、何の匂いなのかを識別します。
人間と同じで、記憶していない匂いはAIでも判別できません。そのため、現在はAIに徹底的に学習させ対応範囲を広げているところです。また、現在は16チャンネルしかないセンサも、将来的には1,000チャンネルを目指しています。
味覚センサは食文化を大きく成長させるきっかけになる
先生の味覚センサが世の中に与えた、または今後与えるであろう影響を教えてください。
現在全世界で600台が利用されている味覚センサは、分かりやすい例でいえば「新しい食品の開発」や「食品の品質管理」の面で役立っています。商品開発の場合、人間が味見をすることが一般的ですが、朝から晩まで味を試し続けるのには限界があります。そこで味覚センサの出番です。センサなら疲労することなく味を確認し続けられますし、データで確認できるので再現性にもつながります。
例えば、『シャトレーゼ』という食品メーカーが開発し、大ヒットした「糖質をカットした和菓子」には味覚センサが関わっています。従来の材料を使っていては糖質、カロリーを抑えることができません。そこで、代わりとなる材料を用いつつ、おいしく味わえるようにと考えたのですが、材料も味の方向もそれこそパラメーターは無限にあるわけです。そこで味覚センサを活用し、「おいしく味わえる方向」を確認することで、効率的に開発を進めることができました。
他には、子供が飲みやすいように苦くない薬を開発するといった薬品開発でも活用されています。「苦味」は「毒性の警告」を意味する味なので、官能検査で何度も味わうのは苦痛です。この場合も味覚センサを使えば、人の負担を減らしつつ、苦くない薬を作ることが可能です。
ちなみに、『全日空(ANA)』の機内で販売されている、九州大学のオリジナル商品『鹿児島ハイボール』も味覚センサを使って作られています。ラベルに味覚レーダーチャートが表示されていて、この商品がどんな味わいなのかが分かりやすいようになっています。
味の可視化は「安心」にもつながります。食品は非常にデリケートなもので、どういった味の食べ物か分からないのに食べようとはしないでしょう。そこで、味覚レーダーチャートで特徴を示せば、消費者も安心して食べられると考えています。
他にはどんなことが挙げられますか?
私が「そんな使い方があるのか」と驚いたのは、マーケティングへの活用です。例えば、ある会社が新しいコーヒー飲料を作り、バイヤーに取り扱ってもらうようPRするわけですが、「酸味がこれだけあって苦味もすっきりとしていて……」と言葉で説明しても、味は主観的なものなので相手には伝わりづらい。
そこで味覚センサで計測した味覚レーダーチャートを一緒に見せて「従来よりもこれだけ違う」とPRできれば、相手も「なるほど」と納得しやすいと。これを「味の可視化」といいますが、はっきりと数字でアピールすることで説得力が増すのです。 食品開発や品質管理は、私が味覚センサを開発した当時から予測していた活用例ですが、こうしたマーケティングでの利用は予想していませんでしたね。
さらには、味覚センサを使って「個人の食の好み」の測定も可能です。私どもで2,000人の味覚パターンを計測したところ、嗜好が大きく20通りに分類できることを発見しました。このデータを活用し、いくつかのアンケートに答えることで好みを判別するサービスもスタートしています。今後は味覚の好みを基にした商品提供、レコメンドサービスも充実するのではと考えています。
無限大の可能性を秘めた嗅覚センサ
嗅覚センサはどのように活用されているのでしょうか?
まずは、味覚センサと同様に食品開発での活用です。これは分かりやすいでしょう。もう一つは「セキュリティ・セーフティ関連」です。現在、この分野で嗅覚センサの活用を求める声が非常に多く、研究が進められています。
例えば、工場に設置されている機器が異常を起こした場合、最悪のケースでは発火し、火災が発生する恐れがあります。しかし、発火する前には何らかの異臭が発生しているはずです。そこで、発火する恐れのある匂いを記憶させた嗅覚センサを設置しておけば、発火する前に検知できるという具合です。
人も匂いを感じることができますが、それが何の匂いなのか記憶していないと判別することはできません。また、匂いも主観的なものなので、トラブルを未然に防ぐのは難しいのです。しかし、そうした人間では難しいことを、嗅覚センサで可視化するなどしてカバーできれば、思いもよらない事故を防ぐことができるでしょう。
呼気と尿の匂いを嗅覚センサで測定し、その特徴から病気を判別するなど、医療での活用も期待されています。呼気から診察する方法は「嗅診」といって、古くは古代ギリシャのヒポクラテスの時代から行われてきました。人の診断では再現性が乏しいのですが、センサなら正確に測定できるため、例えばスマホに嗅覚センサを取り付け、そこに息を吹きかけることで匂いを測定し、健康状態をチェックするといった方法が挙げられます。息を吹きかけるだけでがんを患っているか判別できるといったことも可能になるかもしれません。
他には、「呼気の特徴を応用した認証システム」も研究が進められています。指紋や静脈など認証技術は進化していますが、セキュリティは強固とはいえ、穴がないわけではありません。そこで、その人ならではの呼気や匂いの特徴を用いれば、面倒なパスワード入力を省きつつ、高いセキュリティ性も維持できます。このように、嗅覚センサにはさまざまなアプリケーションが期待されています。
味覚の研究はミクロ・マクロ・グローバルを全て結び付ける
先生が味覚センサの研究に取り組まれた理由を教えてください。
いろんなところで「嫁さんの料理がきっかけ」とお話ししていまして、これがきっかけというのは間違いないのですが、根幹にあるのは「理系だけでなく文系の研究もしたかったから」です。
私は「文化人類学」が好きで、例えば日本語は理由を述べてから結論を言うのに、英語は結論の次に理由を言います。これは文章構造でも同じですが、言語構造の違いからこうなっているのか、それとも民族性から生まれたものなのか、どちらが先なのか、そうした疑問について考察するのを面白いと思っていました。要するに「人について研究したい」と考えていました。味覚研究は、その気持ちをベースに、とにかく人に関するいろんなことを研究した中の一つでした。
味覚を勉強していると興味深い発見があり、ゾウリムシなどの単細胞生物は「苦味」から逃げるのですが、人間は苦いものでも口に入れ、中には好む人もいます。そこで「単細胞生物と人間はどこが違うのだろう」と不意に思ったのです。人間でも赤ちゃんは苦いものは一切口に入れません。そもそも苦味は「毒を警告する味」ですからね。しかし、大人になるとそうではなくなる。これはなぜなのだろうと考えました。そう考えているうちに「味覚」により興味が湧いたのです。
また、味覚は細胞というミクロな分野の研究であり、舌で味を感じ取るというマクロでもあり、さらには「食文化」「伝統」といったグローバルな分野にもつながります。したがって、味覚の研究はミクロ・マクロ・グローバルを全て結び付けられ、私の好きな文化人類学的な考察も可能です。「これは私の好奇心を刺激して、哲学的な思考を求める心を癒やしてくれる!」と膝を打ちました。
加えて、九州大学工学部に入ったときから「工学部に入ったからにはこの分野で身を立てたい」と考えていたので、研究していたセンサと味覚を組み合わせて、「味覚センサ」を開発することになった、というわけです。
味覚の研究には、先生の欲求を全て満たしてくれる要素がそろっていたのですね。
そうですね。さらにいえば、「これならこの世界で生き残れる」とも考えました。人間は現在(いま)を生きないといけませんから。ある意味で、味覚の研究は自分なりのサバイバル術だったのかもしれません。
強い意志とそれを実行する勇気を持とう!
今後の展望を教えてください。
味覚センサを開発することになった当時は、現在のようなITの進化は予想していませんでした。グローバルな社会になればなるほど、味覚センサが活用されると思っています。より広い分野で利用されるよう、自分ができることは何でもしたいと考えています。
最後に、今後理系の道に進もうと考えている学生に向けて、メッセージをお願いします。
よく学生から「この研究テーマが好きでない」と相談を受けることがあります。私はそれに対して、「今必要なのは目の前のことに一生懸命に取り組むこと」と返しています。「努力」を経験することが大事です。努力を経験していないと必要なときに頑張れない。天才といわれる人も努力をしているからこそ結果を出しています。
「強い意志とそれを実行する勇気」が大事です。それさえあれば、いつか夢は叶います。
ありがとうございました。
NEW GENERATIONS INTERVIEW
研究室で学ぶ修士2年生の大西さん(左)、同じく修士2年の赤川さん(右)に、取り組んでいる研究内容や、大学で研究することの魅力を伺いました。
お二人が研究されている内容を教えてください。
大西さん私は味覚センサの研究に関わっています。その中で担当しているのは「医薬品の苦味を数値化するセンサ」の開発です。具体的には、医薬品の苦味だけに応答するようなセンサを作るのが第一のハードルで、そこを乗り越えたら次は市販化に向けて、センサの劣化についての検証を行うといった内容です。
赤川さん私は嗅覚センサを担当しています。嗅覚センサの用途は食品や化粧品の香りの数値化と可視化、工場や施設でのセキュリティ・セーフティ関連、がん検知などの医療関係、個人認証システム、ヴァーチャルリアリティ関係など、いろいろ考えられます。その中で私が研究しているのはセキュリティ・セーフティ関連への嗅覚センサ応用です。センサに用いられている人工嗅覚システム自体が開発途上ということもあり、現在はソフト面、ハード面両方で改良を進め、測定の精度向上や、他の物質も測定できないか範囲の拡大を目指しています。
現在取り組まれている研究の「面白い」と思う点を教えてください。
大西さん自分の研究結果を基に、先生方とディスカッションをすることが多く、その中で自分の導き出した考えが「論理的に正しい」と証明された瞬間はすごく気持ちいいですね。
赤川さん今後への大きな可能性を秘めている嗅覚センサの研究に関われていること自体が面白いです。味覚や嗅覚といった化学物質を測定する「化学センサ」は、物理センサと比べて開発が遅れているのですが、実用化された場合の活用例は数え切れないほどあります。自分の日々の研究が、化学センサの発展に大きく寄与していると考えると、すごく楽しいです。
大学で研究することの魅力は何でしょうか?
大西さん最先端の研究に触れられることが魅力だと思います。自分の環境でいえば、味覚センサの分野を長くけん引されている都甲先生の下で研究できるのは何よりも面白く、魅力的なことです。そうした先生方と意見交換をしたり、フィードバックがもらえたりするのは、この環境で今しかできないことなので、貴重な経験だと思っています。
赤川さん大学での研究は「一つのことを突き詰められる」のが魅力だと思います。研究室では許可さえもらうことができれば、自分の好きなことを好きなだけ、好きなように研究できます。自分が納得いくまで取り組めるのは、大学での研究でないと難しいでしょうね。
お二人の今後の展望・目標を教えてください。
大西さん現在の「医薬品の苦味を検知するセンサ」の完成が当面の目標です。その後は研究結果を論文にまとめたいと考えています。
赤川さん私も現在の研究をさらに進めることが目標です。実用化できるところまでは研究を進めたいですね。人工嗅覚システムについても、今後の改良で自分の知見が応用できればうれしいです。
最後にお二人と同じように大学で研究したいと思っている若い世代に向けて、一言お願いします。
大西さん「自分の専攻にとらわれすぎないこと」ですね。面白そうだと思ったこと、興味深いと思うことがあれば、「自分はこうだから」という枠を意識せず、積極的に取り組んでほしいです。そうすることで知識にも幅が生まれ、研究にも生かせると思います。
赤川さんとにかく「研究は面白い」ということを伝えたいです。研究室では思いもよらない知識や新しい興味深い発見に出会えるので、自分の求める研究だけでなく、広い視点でいろんな研究に取り組んでみるのもいいですね。
ENDING
都甲先生が「自分の好奇心を全て満たしてくれる内容」だとして始めた味覚センサの研究。そこから世界初の味覚センサが生まれ、現在もオンリーワンであり、ナンバーワンの技術として、食の世界で活用され続けています。また、食品だけでなく、セキュリティや医療など幅広い分野の可能性を秘めている嗅覚センサも注目の研究です。先生が開発した2つのセンサによって、私たちのQOL(quality of life:生活の質)は今後大きく向上するかもしれませんね。
文:中田ボンベ@dcp
写真:東野正吾