Report
【連載】TECH-MAG 研究室レポート
この研究が未来を創る vol.04
取材日:2020.01.20
量子コンピュータから
医療分野もカバーする素材革新「機能性分子ビラジカル」
東京工業大学 伊藤 繁和
ミステリアスな疑問との
対峙が、苦しくて楽しい
vol.
04
OPENING
私たちの日常生活を豊かにしてくれている医療やデジタルデバイスといった技術の進歩をさらに飛躍させるべく、特別な機能を持った分子「機能性分子」の構造デザインを研究しているのが、東京工業大学 物質理工学院 応用化学系の伊藤繁和先生です。
伊藤先生は機能性分子の分析手法に、2014年より新たに素粒子を導入。それによって機能性分子「ビラジカル(singlet biradical)に秘められた、たくさんの可能性が明らかになりました。あるときは量子コンピュータの基となる量子ビットに、またあるときは省電力半導体に、そしてまたあるときは医療現場での診断材料に、というように多様な働きを持つビラジカルの研究を進める伊藤先生にお話を伺いました。
Profile
伊藤 繁和 (いとう しげかず)
東京工業大学 物質理工学院応用化学系・准教授。博士(理学)。
研究分野は物性有機化学、ミュオン科学。伊藤研究室主宰。【1993年東北大学理学部化学第二学科卒業、1998年東北大学大学院理学研究科化学専攻博士後期課程修了。1998 – 1999年に日本学術振興会海外特別研究員として仏トゥルーズに留学し、1999年東北大学大学院理学研究科化学専攻助手・助教に。2008 年より現職。2010年に有機合成化学協会研究企画賞 (住友化学)を受賞。日本中間子科学会2019年度奨励賞受賞。】
そんなはずないを”ある”にした研究
有機合成化学と素粒子科学を組み合わせてできた機能性分子「ビラジカル」とはどんなものなのですか?
有機合成化学と素粒子? と聞いてピンとこなくても大丈夫。なおかつ、え? と疑問に思ったなら才能アリかもしれません。各々の専門家でも理解の難しい、まったく新しい取り合わせの研究領域だからです。
世界でもこの分野は数人の先生方しかいなくて、教科書がなく、論文を書くのにとても苦労しましたから、研究者へでも高校生へでも、伝えること自体が難しい。そのうえでなるべくわかりやすく解説します。
機能性分子、私たちがビラジカルと呼んでいるものは、通常は電子的に不安定ですが、ヘテロ元素(例:リン)と炭素を含む分子ユニットにすると、絶妙なバランスで安定の電子状態にできて、しかも有用な機能をもつことも分かりました。これを作った時の論文発表は2003年で、最近生まれたものではありませんが、その機能があまりわかっていませんでした。
大事なことは、青い色をしているということ。半導体の研究をしている人ならわかるかもしれませんが、有機物の半導体として代表的なペンタセンの粉末の色とよく似ています。さらに、構造式を書くと点々※がくっついていて、ここもペンタセンと似ていたことから、同じように半導体として振る舞うのではないかと考えました。
※構造式の黒い点は電子が余っていることを表している(不対電子)
ただ、この式だけを見ると、半導体を知っている研究者なら半導体の性質を示すとはだれも信じませんし、私も最初は信じられなかったのですが、さまざまな物性を測定してみたら半導体の性質をもつことがわかったんです。
半導体として作動させると電力がローコストで、医療などへの応用価値も充分にあることがわかりました。
今回(2019年3月発表)の研究論文の中身は、素粒子ミュオンを使って、この化合物から高活性のラジカルと呼ばれる分子を発生させて、知りようのなかった分子の形、その特異な性質が同定できたということです。
作っただけではわからない物性が多かったと。
何か機能をもつ分子を作る場合、このような構造にすればこういう反応を示すだろうという相互作用を頭の中で考えながら設計して合成する計画を立てます。合成法は端折りますが、ビラジカルの場合はベンゼンという原料から6段階程度で合成します。
今回のビラジカルは、構造式にある2つの点々がミソで、本当はここに何かくっついているべきなのに、測定しても、見えないのか存在しないのか、何も無い。これを探るのが面白いところです。
どのように分析していったのでしょうか?
茨城県東海村のJ-PARCとカナダのバンクーバーのTRIUMF(トライアンフ)という2つの加速器施設に持ち込んで測定しました。
炭素やベリリウムといったターゲットに、高エネルギー加速器で発生させた陽子ビームをドンと衝突させます。すると、ノーベル賞の湯川秀樹博士が予言したことでも知られるパイ中間子ができ、それが壊れてニュートリノとともにミュオンが放出されます。ミュオンは運動エネルギーを失っていきながら物質内の電子を捕まえて、ミュオニウム(Mu)という状態になり、やがて物質の中で安定な場所に落ち着きます。
ミュオニウムに反応する分子が構造内にあれば、ラジカルが産生され、反応過程でおこる回転や共鳴といった特有の現象を観測することで、これまで得られなかった分子の構造を明らかにしていきます。
先ほどの構造式で示した、何かくっついているべき2つの点々の答えは、ミュオニウム。軽いH+(水素イオン)に相当するミュオンと電子がくっついている状態で、言ってしまえば「軽い水素原子」です。素粒子のビームを当てた結果、化合物に素粒子がくっついたことが分かり、謎だった無の部分にはちゃんと存在があったと証明され、構造式も成り立ちました。 考えて、作って、分析してと、こういうことを研究の一連の流れとしてやっています。
ちなみに、ミュオンは宇宙からもやってきて、1秒に1個ほど私たちの掌を通過していると言われています。
ただ、研究には加速器を使って人工的に発生させたミュオンを使っています。高校で物理を学んだ人ならシンクロトロンやサイクロトロンといった言葉を知っているかもしれませんが、J-PARCはシンクロトロン施設で、TRIUMFはサイクロトロン施設。 今回の測定には直流状ビームを提供するTRIUMFが適していて、そこに試料を持ち込んだところ、良い結果が得られたんです。
「ミュオンって何?」からのトップランナーへ
有機合成化学と素粒子科学のかけあわせは珍しいですが、素粒子に目を付けたきっかけは何だったのでしょうか?
私自身は高校2年時の理系科目で物理・化学の2科目を取っていて、最初は化学のほうが好きでした。それが熱力学や電磁気学、原子核と授業が進んでいくと、どんどん化学とオーバーラップし、とくに教科書の囲みにあったサイクロトロンの記述に何となく心惹かれるものがありましたね。
そんな遠い記憶が、現在の研究者生活で繋がるとは思ってもみませんでした。
素粒子への好奇心をもう一度思い出させてくれたのが、量子コンピュータや、「フォトクロミズムという光で色が変わる化合物を研究している青山学院大学の阿部二朗先生です。阿部先生と議論しているとき、「ミュオンやったらいいよ」と言われ、当時は「ミュオンって何?」と思いましたが、それから5,6年経って、研究に詰まっているときに何となく思い出し、ミュオンスピン分光測定を試してみることにしたんです。
それまでと違う研究領域に踏み込むのは大変ではなかったですか?
素粒子のド素人の私にはなかなか厳しかったですね。最初はJ-PARCに課題申請し、2014年に初めて測定を行いました。24時間一睡もしないでその後授業もやってと(笑)。データは得られましたが、分子の形はハッキリ分からない。
それで当時、高エネルギー加速器研究機構に所属していた小嶋健児先生とディスカッションを行っていたとき、「バンクーバーで測定をやったらいい」と提案されて、2015年に初めてTRIUMFでも測定を行いました。このTRIUMFへの課題申請が特に大変で、書類以外に電話インタビューもありました。厳しい質問もあったのですが、サイエンスや研究の発展にこれは絶対に必要な過程でと説明して、なんとかビームタイム(測定期間)をいただけました。
TRIUMFは私たちの扱う有機化合物の測定にはとても良いのですが、今回のビラジカルはミュオンがくっつきにくい構造のためか、肝心のシグナルがなかなか見えない。本当に苦しかったのですが、情熱をもって関わってくれるTRIUMFのスタッフの方から励まされて、実験を進めました。
そしてビームタイムのいよいよ最後の最後、これで終わりかと思いかけたころ、データグラフの波形にシグナルが見えたのです。その瞬間、昔、小柴昌俊先生が「ニュートリノが降ってきたーっ!」と言っていた情景と変わらないほどと言ったら大袈裟ですが、スタッフの方とともに本当に喜び合いました。
それからデータを基に解析し、式化するのに1年、論文にまとめるのに1年。最初のTRIUMFでの測定から4年後にようやく論文発表できました。苦しい局面で助けてもらってエンカレッジされた、そんな背中を押してくれる人との出合いが本当に有り難かったです。今となってはこの苦しさも幸せな経験ですね。
楽しんでもらえるのが幸せ。幸せに貢献するのが使命
研究の今後の課題は?
このビラジカルのミュオン解析は一区切りつきましたが、ミステリアスな部分もまだあります。なんとなく理屈の値と実測のデータにズレがあり、それはなんだろう? と自分の中でその点が素朴な疑問だったりします。
でもこうした疑問を見つけることが大事です。立ち止まり、何が起因しているかを想像していくと、今度はそれを踏まえてより面白い、新しい、優れたものを作るためのアイディアというものが出てくるんです。研究はその繰り返し。それが研究の面白いところで、苦しいけど楽しいのです。
TRIUMFの研究仲間も、最初の測定のあと「これから毎年測定し続けたらいい」と勧めてくれて、有機合成化学とミュオン科学を組み合わせたサイエンスのフロンティアに立った初の学者として、新しい研究領域を創る目標もできました。
半導体を示すこの新しいビラジカル研究の先には、どんな可能性が?
有機合成化学と素粒子、誰もやったことのない組み合わせに挑戦して基礎研究をする立場としては、社会やみんなの幸せに貢献できることは夢というよりも使命。みんなが喜んでくれる量子コンピュータも半導体も大事ですし、ラジカル反応は疾病に関わる技術でもあるので医療診断への応用も考えられます。例えば難病ALSの症状の軽減や進行を遅らせることは究極の目的のひとつです。
それに、こうした革新的な話を聞くのって面白いですよね。自分の研究でみんなをもっと楽しませて社会を豊かにしたいですし、こうして楽しんでもらえるのが嬉しいんです。
好奇心の赴くままに挑戦を
理系を目指す若い方々にメッセージをお願いします
物理を好きな学生さんは、素粒子とか得体の知れないものに惹かれる人は多いと思います。若い人は好奇心にバリアがないですよね。
スティーブ・ジョブズは「創造とは組み合わせだ」と言いましたが、私もまさに組み合わせるからこそ混じって新しいものが出て、社会を変えたり新しいものに変わったり、 勝手に変化をしていったりするのだと思います。
私自身が素粒子への興味を呼び起こされて研究に取り組んだのは40代前半でしたが、素粒子を組み合わせて何を生み出せるのか考えるときが一番幸せです。楽しんで想像し、世界に4箇所ほどしかないミュオン加速器施設のすべてに行き、行くからこそ新しいものが作れて、それを基にこんなものが作れるよと世の中に提案するといったところに続いてきたと思います。
「何となく気になる」というのは大事な感覚で、面白くて惹かれたら、好奇心の赴くまま飛び込んで積極的に挑戦していく人になって欲しいし、若い人ならそれができます。
AIだって人間が作ったもの、科学は人間が創るものなので、やっぱり、好奇心、そして人と人の繋がりが、サイエンスを発展させる鍵だと思います。
NEW GENERATIONS INTERVIEW
間もなく論文デビューの人たちから、企業研究員や技官を目指すゼミ生たちまで、和気藹々の伊藤研究室。
4年生の赤間さん(左)と修士1年の原さん(右)にも取り組む研究内容について伺ってみました。
どうしてこの研究室を? どんな研究をしていますか?
赤間さん私は元々化学が好きで、将来は化学メーカーで研究ができればと思っています。
この研究室を選んだ理由は、高校生の時にオープンキャンパスに訪れたら、間違って大学院のオープンキャンパスで(笑)。その時に有機合成について説明してくださった先生の話が面白くて、そこから興味をもって、一浪して入りました。研究室で私がしているのは、伊藤先生に勧めていただいた元素のうちの硫黄を選んで、その物性を実験して解析しています。硫黄は周期表で酸素の下にいるので、酸素の特徴を硫黄に置き換えると似ている部分があったりして、パズルに似た面白さがあります。
今は教科書に載っている分子の分析だけですが、化学合成はどんなものでも楽しいので、今使っているもので機能性素材を合成できたら嬉しいです。
原さん僕も興味から理科3類の化学系に進みました。伊藤研究室で面白いのはやっぱり反応開発をやっているときです。新しい有機反応を図に描いて、○とか△を変えるとどういう条件でくっつくか考えるんです。くっつくことがあまりないので、出来たときには、世界で自分が生みだしたんだって思えるし、測定してそれが良ければ、使う分野も想像が広がって、調べれば調べるほど可能性が広がっていく面白さがあります。
研究室の雰囲気はどうですか?
赤間さん生命系のこういうことを授業でやって、もっと知りたいと話したら、伊藤先生がすぐに論文を持ってきてくれました。研究室は和気藹々と自由なムード。恒例行事は特にないですけどね。
原さんとてもいい意味で放任主義。他の研究室ではわりと言われたことをする感じですけど、自分でやりたいようにやらせてくれるのが、先生の魅力。やりたいことを尊重してくれるんです。
ENDING
合成化学は、社会課題を解決する意義の高い研究分野で、そこを目指す人は、ものを生みだすことへの興味や謎解きへの好奇心に思い切りダイブできる環境に出会うと、研究を心の底から楽しみながら、新しい発見や創造を歴史に刻むことさえできるのだなと、改めて応援の拍手を送りたくなりました。
伊藤研究室のラボで最も高価な抽出用フラスコを置く特製の台は、なんと大工さんであった伊藤先生のお父様がプロの技を駆使したオリジナル。伊藤先生はその才を受け継ぐように創意工夫の精神で学生たちを指導されているようで、なかなか羨ましいムードでした。
伊藤先生は近く論文を発表する学生たちにも「彼らは本当に頑張ってくれる。ひとりでしっかり考えられて、素晴らしいんです」と紹介して、「論文で、ねえ、世界を変えるよね?」と声をかけると、未来の研究者たちは手を止め、ガッツポーズで応えていました。
文:武位教子
写真:今井裕治